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四旬節説教要旨

『キリエ、エレイソン』 ルカ福音書18章31-43  宮本新牧師

キリスト教信仰の中核には十字架の死と復活があります。最初のキリスト者である弟子たちがそれをどのように受け取っていったのか、その一端を知ることができます。意外なことに、彼らは「何も分からなかった」といいます。「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」とルカは言葉をかさねます。もちろんルカは、弟子たちの後継ですから、おとしめるためにそう書いているのではありませんし、ある種の居直りを伝えているのでもありません。福音信仰にいたる道筋を私たちが通常考えるような道理、つまり本人の努力や賢明さとは別の何かが欠かせない。いや、それらは邪魔にさえなることを思わせるような話を伝えます。

エリコという町にイエスが来られたことを聞いて、道端で物乞いをしていた目の見えない人が、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだといいます。人々は彼を叱りつけ、黙らせようとしたところ、イエスは「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」とこの人の叫ぶ祈り(キリエ)にお応えになられます。すると、その目は開かれ、神をほめたたえながら、イエスに従った。この話は初代教会の人たちにとって回心体験に属するものだったのではないでしょうか。イエスの受難を予告され、「意味がわからなかった」と記すルカにとって重たい意味を持っていたように思われるからです。どこで人は大事なことを悟り、思いは切り換えられるのでしょうか。弟子たちはイエスの傍で一生懸命だったはずですが、この時はまだ分かりませんでした。何かが足りなかったのです。

「教会」という言葉は、新約聖書では使徒言行録に見られます。ギリシャ語でエクレシア。集会を意味します。元々は単純な世俗の言葉でしたが、初代教会の人たちはここに答えを見出しました。エクレシアには、教えること・学ぶこと、祈ること、歌うことがありました。パン裂き、交わりもありました。2000年もの間、教会で繰り返されていることです。エクレシアの元来の意味は「エリコの盲人」の目を開いたイエスと共に変容します。必死にイエスに従い、大切なことを学び知ろうとした弟子たちの元に思わぬ開眼の道筋が得られたのです。丁度、イエスと弟子たちの間にこの人が割って入る構図です。その日、物乞いをしてイエスの道を阻むかのような人を通じて、弟子たちの目は開かれたのです。イエスと弟子たちの間には、この人の「キリエ」が必要だったのです。これが受難予告で弟子たちが無理解であったことと「エリコの盲人」の話がセットになっている理由だと思います。

人は高い壁に行く手を阻まれるようなとき、暗闇の中にぽつんと取り残されたようなとき、どのように活路を見出せるのでしょうか。寒々とした心が溶かされ、凝り固まった思いがほぐされ、のびやかな心はどのように回復されるのか。福音書の答えは、きわめてシンプルです。イエスがひとたびおいでになり、働かれるところ、目は開かれ、道は開かれる。これだけです。目の見えない人が言った、「主よ、あわれんでください(キリエ、エレイソン)」は、この人とイエスとの唯一の接点です。この人の目を開かれることを通じて、目が開かれたのは弟子たちも同じでした。きっとルカは、驚きと畏怖を感じながらイエスのお言葉を書き記したに違いありません。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と。

私たちが神やキリスト、教会やその宣教に結びつく動機や理由はいろいろあります。しかしイエスはあのマルタへの呼びかけをここでも繰り返しておられるのです。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」(ルカ10・41-42)。エリコの盲人を通して、弟子たちが教えられたのはこの「ただ一つ」のことでした。それが「主よ、憐れんでください(キリエ、エレイソン)」。今朝も、私たちがキリエを心を込めて唱える理由なのです。(16.2.21)

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